ただの日記です。
Dnes jsem napisal pismo. V mojej firmje, treneri pishut novym rabotnikam tajno, i oni dostavajut v jesennjem centralizovanom obrazovanju novyh rabotnikov ako surpriz.
いまのご時世、公的な書類を郵送するほかは、手紙を書くことももらうことも少なくなっているから、一通一通の手紙がそれなりに思い出深く、感慨深いものだ。手紙を書くとき、過去に送り、もらった手紙の群れに思いを致さずにはいられない。
いっぱんに、ひととひととの間柄というものは、直接会って話すに如くはないもので、それは共時的なinteractionにreciprocityが生まれるからである。そうすると、手紙というのはその対極に位置するもので、およそひとりよがりとの誹りを免れない。じっさい、プラトンが書き言葉を拒絶したのもまた、そうした理由からであろう。
しかし、対面のコミュニケーションとは、ひととひととの間に現前する空気をも取り込んでしまうものだ。互いにひとりよがりの手紙を書くことによってしか生まれない間柄というものがあり、それは不思議なことだと思う。
今度異動になる課長は、出社に拘泥せず、在宅がしやすい環境整備を進めてくれたひとだったが(前の課長と前の前の課長から受け継がれてきたものだ)、言いにくい話こそ対面や電話の肉声でするということを教えてくださった。すると、案外そのreciprocityというものは、互いに対してbeneficialであろうとすることよりも、むしろharmlessであることを目指したものなのではないか。
親しくなるということは、領分を破るということで、それは必然的に加害性を伴うものだ。すると、手紙というものは、親しくなるために必要なものなのかもしれない。もっとも、日々の積み重ねがあるからこそ、領分を破ることに正統性が見出されるのであって、それは車の両輪というべきものかもしれないけれど。